認知されること

昨日早起きして暇だったから、朝コンビニへ行っておにぎりとパンとチョコケーキを買った。チョコケーキというかガトーショコラみたいなの。あの分厚いケーキは、カロリー!って感じがして好きだ。おにぎりは20円安くなってたから、ツナマヨにした。パンは新商品だったから明太もち味のを買った。食べたことのある美味しいパンと迷ったけど、新商品と書かれてあるとどうしても気になってしまって買った。なぜか他のものはそうでもないけれど、コンビニのパンとスイーツは新商品って書いてあるとどうしても気になっちゃう。まあ、なんか購買意欲の心理みたいなの、コンビニは特にすごく研究してそうだもんね。フツーのことか。

 

最近はサニーデイ・サービスとmom君の音楽を聴くのが心地よい。どっちも聴いてると、やる気(音楽をつくるとか)がでる。曽我部恵一とmom君に年齢差はあるけれど、似ているのは作り続けていることと、音楽に向き合う気合いみたいなものが本気な感じがすることだ。他にもそういうアーティストはもちろんたくさん居るけれど、今のじぶんにはこの2組が心を奮い立たせてくれている。

 

昨日、記録用に撮った夕方の恋をそのままYouTubeにupしてみた。下手くそだし、カバーと言える程カバー出来ていないから、何度も消したくなったけれど、の子さんにふぁぼしてもらったから、せっかくなので残しておこうかな、と思ってそのままにしてる。認知はしてもらえたということだ。認知が目的ではない。だけど、インターネットの使い方としてそれはそれでいいと思う。誰かわからない人たちに再生してもらえたということだし。その人たちがどう感じたかどうかは置いておいて。でも忘れたくないのは、"認知されること"なんて本当はどうでもよいということだ。

 

今部屋でこの文章を書いているけれど、外へ出掛けて歩いている時の方が色々と思いつくな。色んなものや人や景色、暖かさ、寒さ、音など、そういうものがランダムに見ささったり、聞こえるほうが、思考がどんどん飛んでって、考えが進む。家は守られている。安心できる場所という感じで、そういう場所に居るとさっき書いたような景色などの変化は何か事件が起きるとかそんなことが起こる以外もちろんない訳で、当たり前のことかもしれないけれど、集中するには適しているけれど、書くのは外でした方が面白いのかもと思った。

 

そういえば、今日見た悪夢、さいてーだったな。やっぱり狂っちゃうや。人は他人(ひと)の人生、簡単に狂わせられる。良くも悪くも。死ぬまでに、良い意味でそうできたらいい。たった一人でも。

nemui...

今日から先生との約束事で8時までに起きる予定だったところ、夜中何度も目を覚ましてしまい、4時に起きた時すっきりしてたから、そのまま起きちゃおうと思って起きていたから、もう眠いや。

 

この壁。いつからあっただろうか。もう忘れちゃったけれど、子どもの頃はなかったのは憶えている。地下鉄が好きだった。土曜日が好きだった。スタンプ集めるのが好きだった。シール帳にシールはっ付けて集めて、友だちとこうかんこするのが好きだった。プリクラ撮るのが好きだった。1回400円だから、4人か2人で撮ってたな。でもどっかで聞いたけど、今は1回500円らしい。お金の出し方難しそう。どうでもいいけど…。そういえば、100均にあった百円のプリクラ機も好きだった。そこに昔飼ってたミミ(犬)を鞄に入れ、持ち込んで、こっそり一緒に撮ったこともあったな。懐かしい。でも、もうそんな気持ち忘れちゃったや。おとなになるってこういうことなの?

はじめての気持ちで

一人暮らし始めての気持ちのような気持ちで今日は眠れそうだ。今日から先生と約束した時間になったら、やってることの手は止めて寝る支度をはじめ、22時には布団に入るという生活の始まり。うまくいくだろうか。可能性は低いけれど、その意識をするだけで少しは生活のリズムが整うのではないかな、と思う。話は変わって、なんとなく最近、団地に住みたい思いがある。なんとなくだけど。団地いいよな。本当にそれだけなんだけど。

とにかくなんでもいいから書く。このことに意味はあるのか。正直わからない。だけれど、私にはことば意外ないような気もしているから、そうなのかもしれない。音楽だっだて絵だって写真だって編み物だってビーズだって、すぐに飽きてしまったり、うまく出来ないことばかりだ。それはやってみなくちゃ分からないことだったから、経験したことに価値はあると思うけれど、どれも中途半端だったり、センスがない。そうしたら、何が残るか。ことば、文章を書くことくらいしか残っていないような気がさっきした。書くことだって自信があるわけではないけれど、これまで色々とチャレンジしてきた中ではマシな方なきがするから、やっぱり書いてみるや。意味とか価値とかなくてもいい。評価もいらない。じぶんのためだけに書くチャンス。

SNS

今となってはここでは当たり前に存在するSNS。私はSNSなんかなかった時代に生まれたかったと思う。うーん、言い切ることはできないけれど、そう言う時代に生きてみたかったな、と思う。中学生になってからSNS、またインターネットに寄り掛かるようにして(依存とも言えるかな)生きてきた私は、とても弱い。弱くなったと思う。でも、なかったら、今頃この世にいなかったかもしれない。その場合話は変わるのだけれど。でも、SNSに依存することが、自律することの妨げになったのは確かだと思う。色んな人に頼ってきた気がする。SNSに書き込んだり、人と繋がることで、実生活(リアル)では、絶対に話すことなんて到底できない、ものすごく大きくて何色とも言えない暗い色をした岩のような不安や憂鬱な気持ち、ことばにできない苦しみを、分散させていた。分けて相手に与えていたのかもしれない。心苦しい話だ。まあ、分け与えてしまうということはリアルでもそうなんだと私は思っているから、他者に対してじぶんに関する暗い話はあまりしてはいけないと思っているのだけれど。でも、やっぱりひとりじゃ抱えきれなかったから、決してよい方法じゃなかったとしても、相手に分け与えると言う方法で肩の荷を減らしてなんとか生きてこれたのだろう。それでもやっぱり、SNSやインターネットがない時代に自分が生まれていたらもっとつよくなれていたのではないかな、と思ってしまう。簡単に、地図のアプリで右に曲がって真っ直ぐで着けますよとか、電車やバスの時刻を調べられたりとか、編み物だって図面だけじゃよく分からないけれど、YouTubeを見ながらだったらなんとかできる。それに出会いを求めれば出会える。ちやほやされたければ、ちやほやしてもらえる。承認欲求ってやつだね、それが悪いとか良いとかそういう話じゃなくて、なんでも頼れてしまう。自分で考えることをしなくなる。自分の力で乗り越えようとするエネルギーがどこかへ消えてってしまったような気がする。私は常に他者からの評価を気にしてしまう。SNSやインターネットに向いてない。簡単に言っちゃうと、自信がないのだ。自信はあり過ぎるのもよくないが、なさ過ぎるのも良くないと思う。少しくらい自信を持って生きていきたい。いや、本当は自信はあって自己愛が強いとか愛着の問題だったりするのかも。それはそれでまた考えなきゃだなあ。人の愛着やパーソナリティは青年期にほぼ確立してしまうから、今からそれを変えることはとても難しいことだ。でも、それをしなくちゃ、またはぜんぶ明確にしてそれを受け入れた生き方をしなくちゃ、ずっと生きづらいままだ。どんどん書いてて乱文になってしまった。とりあえず、いま何が言いたいかというと、SNSやインターネットに頼った生き方はしたくないということと、SNSやインターネットとうまく付き合っていこうということだ。そして、本当の意味で大切な人との関わりを忘れないでいたいということだ。私は人に恵まれているのだから。生きづらくても、運は良い方なんじゃないかな。もう若くないとか最近思うけど、まだ若いよ、だいじょぶ、そう思ってるよ。どーでもいいことやってる暇なんかないけど、どーでもいいことと大切なことって紙一重だったりする。だから、分かんなくてもいいからやってこーよって思う。

未来の教科書に

"未来の教科書に載りたい"と思っていた時があった。できれば、いや、もちろん良い意味でね。でも、今考えると「…」という感じだけれど。その頃は他にも、マジシャンになって子ども達をドキドキさせてみたい、とか、お風呂屋さんになって休業日の日ひとりで大きなお風呂を貸し切りたい、とか、総理大臣になって教育改革をしたい、とか思ってた。本気でね。ただ本気だったのは確かだけれど、どれも行動には移せなかった。移さなかったとも言えるかもしれない。本気じゃなかったのかな、そうかもしれない。でも、今からでも遅くはない。いつか未来の教科書に載るようなことはできるかもしれない。それが目的やゴールじゃ無くても、そうであっても、何かしなくちゃ。いや、したいな。何かひとつでも。

グレーなこと

ここでは「あっ!やっちまった!」じゃ済まされないことがある。ここってのは、じぶんの知ってる限りのせかいのこと。そういうことは、グレーを超えて全くのまっくろだ。それも墨の濃い墨汁みたいにね。一瞬でべちゃっとなって、もうどうにも色を変えたり、消したりできない。でも、そんなことってどのくらいあるのだろうかと考えてみると、そんなにはない。でも、確実に在ることは在るんだ。それがこわい。つづきが書けない。

無気力について

最近、たくさん寝てしまう。その分、たくさん夢を見る。とても心地の良い夢を見る時もあれば、とても辛かったり、こわい夢を見るともある。その内容を、外に出掛けて歩いている時にふと思い出して、「あれ?あれって夢だったのか?現実だったか?いや、そんな訳ないか。」等と考えたりすることが増えた。結局大体は夢だったりするのだけれど。それにしても最近は寝過ぎてしまう。朝が苦手なのは昔からだけれど、こんなに寝てしまうのはちょっと久しぶりだ。気力がない。無気力感が強く、何をするにもモチベーション(動機づけ)がかなり低い状態にある。なぜか?また、それを解決する方法はどんなものがあるか。そして、そもそもそれは可能なことなのか、必要なことなのか。この問題の周りにはこういった色々な物事が絡んでくる。何をするにも、"やらされてる感"を感じてしまう。生きるのに向いてない。ある友だちが言うように「やりたくないのなら、やらなきゃいいんじゃない?」とも考えたりしたけれど、なんか違う。やりたいのに、できない。やりたくない訳ではないのだ。ただ私は、何かを始める時、着手すること("取り掛かり始めること")がとても苦手なのだ。異常な程に。でも、起きるのだって、冷蔵庫に大好きなロールケーキがあると思えば、パッと目が覚めたりするし、掃除などにおいても取り掛かり始めると、案外楽しく、または気楽に、取り組むことができる。書くことにいたっては、楽しいとか気楽とかだけではなく、自分にとってとても価値のある体験につながることが多い。私の頭の中は、基本的にはいつもごちゃごちゃとしていて、(あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、明日の予定はなんだっけ?、なんだかしんどいな、しにたいな、これからどうしよう、とか毎日異なる色んなことが頭の中の本棚に収まりきらず机の上に散らかっているみたいな状態。机に物がありすぎるから、机が使えない。)でも今こうして文字を文章にして書いていると、少しだけでも頭の中の思考が整理されてすっきりとすることに気づく。このことも経験するたび何度も気付くのに、すぐ忘れてしまう。忘れてしまうことについてもまた今度考えたい。

 

話は戻って、探し物をしているうちに部屋がごちゃごちゃしてしまって、無気力になってしまいぼうっと部屋で困り果ててしまうのと同じで、頭の中もごちゃごちゃしていると、考えることや書くことに対するモチベーションが全く無くなってしまう。だから、考えたことを書くことは私にとってとても重要なことだ。人から言われたり、常識的、社会的に当たり前とされているルールや考え方、振る舞い方など、私は自分で体験、あるいは疑似体験をして、じぶんのことばで説明をつけ納得できるまで、真の意味では理解できない(これは私だけでなく多くの人もそうなのかもしれないけれど)し、行動できない。でも、この世のすべてを一つ一つ経験し、実感し、自分の言葉で納得するなんて、かなり途方の暮れることだ。では、どうすればよいのか。まずは、たくさんのことを体験することだ。そして、それをじぶんの言葉で解釈すること。そして、書くこと、話すこと。新しく話すことというテーマも出てきてしまった。全部一遍には考えられないから、置いておこう。

そうだ、無気力とモチベーションについて考えていたんだった。話がつながっているかな。つながっていないかもしれないけど、まあいいや。今日のメモだけで、無気力についてあっさりと解決できるようだったら、こんなに日々悩んではいない。今日結論がでなくてもいい。とりあえず、書くことで前に進むこと、それを忘れずにこれから日々書いていこうと思う。


では。また。